こんにちは。
今回は2004年芥川賞受賞作品で映画にもなった、『蛇にピアス』(集英社)について、主人公のルイに着目しながら、自分が感じたことをまとめてみようと思います。
ルイの「過激」な生き方の裏に
①社会的背景
ルイはまともで、にぎやかで、明るい社会を心底嫌い、その正反対の暗く退屈な世界に生きようとします。
実際彼女は、「日が当たらず、セレネードもなく、子どもの笑い声が決して聞こえない地下の世界の一部になること」だけを望んだように、日も当たらないような暗い世界で「影」となって暮らそうとしています。(度々この考えが序盤あたりを中心に述べられている)
この点に関して、僕は筆者である、金原ひとみ自身のバックグラウンドが反映されているのではないかと思います。
というのも、いくつかのメディアが既に書いているように、彼女は1980年代に生まれ、バブル経済の崩壊を10代の頃に経験しました。
そのポストバブルの中で、彼女や同世代の若者は、愛情の欠如や寂しさ、孤独感などの精神的な苦しみを感じただけでなく、就職氷河期とも言われる、雇用の危機にも直面したことでしょう。
また、その頃に、これまで長く社会に根付いていた価値観(結婚や家族に関してなど)というのも崩れてきた、という意見もあるようです。
そういった突然停滞し、混迷し始めた社会で、ある意味”Damaged Youth"として絶望感を抱きながら生きてきたのかもしれません。
これらの背景をもとにルイを見直すと、
彼女はパートナーである、アマと同棲しながらも、彼が死ぬまで彼の本名も家族も知りませんでしたし(価値観の変化)、仕事も不定期で(非正規雇用)、子どもや家族の楽しそうな声を拒絶しています(精神的な傷)。
このように、筆者自身が受けたものと同じような傷、疎外感、絶望感の埋め合わせとして、ルイは身体改造やSMなどの「過激」な行動に走っていったのかもしれません。
②アイデンティティ
ルイは終始、アマやシバ含め、周りから「ギャル」として見られています。
彼女の友達であり、「ギャルの典型」マキからも同じギャルだと思われているので、容姿は実際ギャルに見えるのかもしれませんが、それをルイは常に否定します。
彼女がスプリットタンやタトゥーといった身体改造をするのは、それによってギャルというステレオタイプを壊して「本当」の自分を表現し、それを見て欲しいからなのかもしれません。(ルイ自身「見た目で判断して欲しい」と思っているからこそ)
マキはそんな彼女の姿を見て洗脳されたのではないか、永遠のギャルではなかったのかと心配する場面もありますが、ルイは「スプリットタンがギャルというイメージに合わなくても全く問題ない」と言っていて、そこに彼女の意志を感じます。
そもそもルイは、アマがスプリットタンをしているのを見て、「全てのモラルと価値観が崩れ落ちた」と回顧しているように、その身体改造という行為はギャルを含めあらゆるステレオタイプやモラル、価値観から彼女を自由にするものだったのでしょう。
また、彼女の行動にはアマも影響しているのかもしれません。
ルイから見ると、アマは不良のような見た目をしていますが、実際は常に優しく「癒し系」の芸能人のようだと感じています。
アマは、そうした優しさや弱みというのを見られるのが嫌で、不良という「殻」でそれを隠そうとしています。
このような姿を見て、ルイもギャルに見られるのが嫌で、身体改造によってそれを隠そうとしたのかもしれません。
③痛み
ルイは何度も「死にたい」、「死んでもいい」と言っていますが、彼女は痛みを感じることによってのみ生の実感を得ているのではないかと思います。
実際、「現実へ戻す力があるのは激しい痛みだけ」ということを言っていますが、彼女は身体改造やシバとのSMによる強烈な痛みを通して、自分がいま生きていることを再認識しているようです。
しかし、それらはあくまで肉体的な痛みであり、精神的なものとは違います。
アマの死を知った際、ルイは「これまで感じたことのないほどの痛みと絶望感」を感じています。
彼女はこれまで散々痛みや絶望感を味わってきたはずです。
それでもなお、そのように発言するのは、彼女がこれまで感じたことのなかった、大切な人を失ったことによる「精神的な痛み」だったからだと思います。
ルイはその初めての痛みに戸惑っていますが、それと同時に、彼女はこれまでにないほどの「生」を実感したことでしょう。
だからこそ、ルイはスプリットタンも完成目前にして止め、背中のタトゥーに目を入れて完成させたのかもしれません。
シバに目を入れてもらう時、ルイは「タトゥーの龍と麒麟に命を授けるのではなく、自分自身に授けるのだ」ということを言っています。
彼女にはもはやそうした、現実に引き戻してくれる「肉体的な痛み」が必要ないほどに生を感じ、「生きる」ことを固く決心したのです。
そうして、これまで暗い世界で影となって暮らしてきたにも関わらず、最後には太陽の方向を向いて眩しい光を浴びるのです。
これは心の中にいるアマとともに新たなステップに進もうとするルイの決心の表れかもしれません。
ちなみに映画では、ルイが渋谷の交差点の真ん中でうずくまるというシーンで終わるらしく、小説とはエンディングを異にしていますが、映画は小説よりも少しネガティブなニュアンスを演出したかったのかもしれません。(ルイが妊娠したという説もあるようですが)
まとめ
このように、一部の読者を敬遠させるほど「過激」なルイの行動の裏には、心に傷を負った筆者自身の過去が重ね合わされ、その深い傷を埋め合わせようとする意図があったのかもしれません。
ギャルというレッテルから自らを解放し、「本当」の自分を表現したいという思いもあったのだろうと思います。
また、そうした行動に伴う肉体的な痛みを通してでしか「生の実感」を得られなかったという側面もあるでしょう。
それらを加味すると、この作品は単純に「エクストリーム」な身体改造やSMを描いただけとは言えないと僕は思います。(もっとも1回読んだ時点では僕もそう思っていましたが笑)
確かにルイの生き方というのはある意味別世界のように感じますが、「痛み」でしか生きていることを感じられないほど追い込まれた彼女は、彼女なりに「必死」に生きようとしていたのかもしれません。「良い子」が「良い子」として、「悪い子」が「悪い子」として必死に生きるように。